TGR2019


TGRアカデミーレポート

第9回シアター・オリンピックスレポート
‐演劇が観劇者に提供する価値について‐

演劇家族スイートホーム所属
髙橋 正子

まずは、このような貴重な経験をさせていただいた、さっぽろアートステージ実行委員会、シアター・オリンピックス実行委員会、SCOTの皆さん、富山県利賀村の皆さん、瑞峯の女将さん、関係者の皆さんに感謝いたします。

TGRアカデミー応募理由
昨年、TGR札幌劇場祭にて私が脚本演出をつとめた『裸足でベーラン』が新人賞を受賞しました。私はその過程の中で演劇を作る人も観る人も多くの時間や、感情、金銭が消費されていることを痛感しました。『裸足でベーラン』はその時やれるだけの事を尽くした演劇です。しかし、私一人だけが満ち足りた演劇を作っているだけで良い訳がないと考えるようになりました。劇団にも、役者にも、スタッフにも、劇場関係者にも、何より観劇に来ていただく方々にも消費したものに見合った、またはそれ以上の価値を提供できるような存在になりたい、そう思いTGRアカデミーに応募しました。

選択コースについて
私は、より多くの演劇を観ることで、自身の演出や価値観の幅を広げ、それを演劇に還元したいと考えました。その為、世界の舞台芸術を鑑賞出来る「第9回シアター・オリンピックス」旅費助成コースを選択しました。9月5日から9月9日の5日間で、7本の演劇を観劇、2本のシンポジウムに参加しました。演出家の国籍で言うならば、中国(台湾)、韓国、インド、ポーランド、ロシアと日本を含め6か国の演劇を鑑賞しました。
このレポートでは、舞台芸術やシンポジウムから学ぶことの出来たことの中から、いくつか抜粋して5日間の経験をまとめさせていただきます。

「役者」の価値について
シアター・オリンピックスで最初に観劇したのは台湾の振付師による舞台芸術『沈黙の島‐新たなる楽園‐』でした。まず驚いたのは、360度どこからでも演者を観ることができる点です。私が今まで経験してきた一方向からの視点とは違い、演者は全方向から鑑賞者の目線にさらされることになります。それは逆に言えば、演者に絶対的な自信と価値があることの表れだと、その時感じました。この舞台芸術は1時間以上走って舞って身体表現する舞台芸術でした。また、『剣を鍛える話』『世界の果てからこんにちは』(どちらも日本国籍の演出家)では、野外劇場という声が四方に散ってしまう環境にも関わらず、台詞を聞き漏らすことは一度もありませんでした。『アンヘリ‐呻き‐』(ポーランド国籍の演出家)に出演する役者兼歌い手は伝統音楽の歌手と長期に渡って仕事をし、実際の典礼や葬儀に参加できるようになるまでの経験を積んでいます。その経験による歌は全身粟立つ程の荘厳さと美しさでした。
そんな演劇を観る中で、役者の能力が作品の価値に直結していると痛感しました。私は、脚本と演出の出来が役者を活かしもするし、ころしもする、そう思っていました。一方で、シアター・オリンピックスでは役者が脚本、演出を活かす場面に多く出会いました。私の当時の考え方も有り得ることだとは思います。しかし、シアター・オリンピックスでは世界を代表する演出家、脚本家の作品の価値をさらに倍増させる役者しかいませんでした。役者は演劇に含まれている価値なのではなく、演劇の付加価値に等しい存在だと今更ながら気づくことができました。
シアター・オリンピックスに役者として参加した方々の付加価値になるまでの努力は素人同然の私の想像を超えたものだと思います。しかし、一劇団員である身として、公演稽古以外の努力が重要であることを学ぶことが出来ました。

ハコへの柔軟性について
先ほど紹介した『沈黙の島‐新たなる楽園‐』は、鑑賞者が演出に合わせて移動する様子から、鑑賞者自身も作品の一つと思えるような作品です。その為、演者と鑑賞者の線引きがなく、空間そのものが作品という印象でした。また『十二人』(ロシアの演出家)では、円状の舞台の中心に観劇者を配置し、その周りで役者が演技をするという変わった構造になっていました。時には役者が観劇者の後ろに回り込み、死角からの台詞や口頭による効果音は言いようのない恐怖感や不安感を掻き立て、演劇にのめり込むきっかけとなっていました。
今まで、舞台があって、観劇者がいて、上手と下手がある劇場(ハコ)が当たり前でした。その為、舞台の作りや、観劇者の目線から考えて一から箱をつくることにとても衝撃をうけました。同時に、演劇という芸術はどこまでも自由で柔軟であることを痛感しました。そして、演出家や脚本家の柔軟性がその演劇の可能性につながると考えます。私が脚本、演出に携わるとき、自由に柔軟に構想出来ればできるほど演劇の可能性や価値は多様化できると学びました。

古典戯曲が共通言語になる
演劇が海を渡る際にぶつかる壁の一つに「言語」があると思います。シアター・オリンピックスでも、様々な言語の元、公演が行われました。対策として、字幕を表示する、事前にあらすじの書かれたレジュメの配布などがありました。インド国籍の演出家による『マクベス』はレジュメの配布のみで字幕が一切ない演劇でした。シェイクスピアの四大悲劇として有名な『マクベス』ですが、私は恥ずかしながら前日まで大まかなあらすじ程度しか知りませんでした。しかし、偶然宿泊先で話した男性から「あの演劇はマクベスを一度読まないと楽しめないと思います。よかったら」とマクベスを貸していただきました。この男性がいたおかげで、約2時間を楽しむことが出来ました。あの時の男性には心から感謝しています。
その後、「マクベス」について改めて考えると、私は、戯曲を一本読んだだけで言語の壁を軽々と超えたことに気づきました。マクベス夫人の朗報を受けての狂気と歓喜に満ちた感情や、マクベスの罪悪感と欲望の板挟みによる葛藤は言葉が理解できなくても感じ取ることが出来たからです。マクベスを一読していなければ、人物関係すら理解できませんでした。古典戯曲は図書館や本屋に行けば誰でも手に取ることが出来る気軽な台本です。故に、言葉が理解できずとも、海を越えてきた演劇だとしても、観劇者はその片鱗を理解することが出来ると知りました。
また、創作者は古典戯曲を理解する観劇者へ、たったワンフレーズで膨大な情報量を提供できると学びました。『世界の果てからこんにちは』では、野外劇場で何十発もの花火が打ちあがり「今まで演劇だと思っていたものだけが演劇じゃなかったのか」と思わせる演出が多くありました。そんな演出にただただ圧倒され観劇を終えた後、男性からマクベスを借りる一件がありました。マクベスを読み終えた後、『世界の果てからこんにちは』の台詞の中にマクベスの台詞が練りこまれていたことに気づきました。その瞬間、ただ圧倒されていた私から、演劇の台詞をマクベスの戯曲に沿って考察できる私に変化していました。
古典戯曲の一節は感情を圧縮して伝えてきます。例えば「おお、ロミオ、あなたはどうしてロミオなの」この台詞だけで聴く人は、役者が恋愛感情を向ける相手がいることまで想像します。それはシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の有名すぎる一節であり、物語が悲劇的結末を迎える2人の恋愛物語だと知っているからです。
古典戯曲は、それを知っている人に演劇の世界観をより深く考えてもらえる共通言語的存在だとシアター・オリンピックスで学びました。逆に言えば、「知らなければわからない」とも言えます。しかし、国際演劇の祭典であるシアター・オリンピックスでは最適なツールだったのではないかと考えます。古典戯曲の一節は瞬間的に感情や背景といった多くの情報を伝える力を持っています。それは演劇を楽しむ人だけに理解できる特典です。こうした共通認識が札幌の演劇で広まれば広まるほど、演出、脚本の可能性は広がり、観劇者もより深いところで演劇を楽しめるのでは、と考えます。また、古典戯曲だけでなく、社会背景や歴史上の出来事なども共通認識しやすいカテゴリーだと考えます。演出、脚本に携わるにあたって、そういった共通認識しやすいカテゴリーの知識は必要であり、能動的に学ぶ重要性を再認識しました。

演劇による問いかけ
『世界の果てからこんにちは』の脚本演出家であり、日本を代表する演劇人である鈴木忠志氏によるトークショーの中で、芸術家は作品を通じて鑑賞者に質問を投げかけるといった話がありました。解決できない問題こそ芸術で問いかけ、鑑賞者が答えを探す。私はこの話を聞いた時、創作者の原動力を言語化しているのだと思いました。理解してもらわずにはいられない、言葉に出来ない感情や、社会背景への意見など演劇の原点は創作者の「伝えずにはいられない」という焦燥感だと考えます。それが普遍的な話題であったり、鑑賞者の関心が深い内容であったりするほど、演劇による作り手と鑑賞者とのコミュニケーションはより深まります。
今後の創作において「どうしたら観る人全員にウケる演劇が作れるか」を考えていた私にとって、鈴木氏の話は目から鱗でした。もちろん、観劇者の意思を繊細に考えることは演劇を提供する者として考えなくてはならない課題ではあります。同時に、創作の熱量がなくてはならないと考えることができました。演劇は完成が無く、さらに長い時間多くの人と練り上げる芸術分野です。公演まで走りきるためには、観劇する側の目線だけではなく、創作者の意欲との両立が必要だと再認識することができました。

さいごに
これまで、いくつか学んだことを列挙してきました。私がシアター・オリンピックスで学んだこと、気づいたこと、考えたことをすべて言語化することは難しく、またすぐに実行することも困難です。故に、これから長い時間がかかってでも着実に少しずつ実現していきたいと考えています。実行する中で今回学んだこととは真逆の結論になる場合や、考えが浅かったと思う時があるかもしれません。しかし、それもこの経験がないと気づけない事だと思います。
今回の経験だけで、観劇者に、演劇に関わる人たちに対して「演劇に触れた価値」を生み出しきれるとは思いません。これからも、この経験をより多くの人に還元する為に、価値を作るために、常に学ぶ姿勢を持って演劇に関わっていこうと、シアター・オリンピックスで改めて決意しました。

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